仲哀天皇 真の陵墓はどこにある!?
2020-06-23


 

「日本書紀」によると、「神功皇后摂政二年冬11月、天皇を河内国長野陵に葬った」とあり、現在ではその比定地は藤井寺市岡の前方後円墳とされていますが、江戸時代の歴史学者、松下見林はその著書「前王廟陵記」で仲哀陵の所在地を河内長野上原村と比定します!徳川綱吉の時代に、歴代天皇陵墓探索があり、幕府がここを仲哀天皇陵として認定します。それ以降竹垣が巡らされて、隣に西山神社が出来ます。

しかしながら「古事記」には「御陵は河内の恵賀の長江にあり」とあるので、大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある現在の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)が仲哀天皇陵となりました。

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 ↑ 宮内庁管理「仲哀天皇陵」岡ミサンザイ古墳


河内長野上原村の方は1735年刊行の「河内誌」によれば、用明天皇の孫である高向王の墓としています。幕末に行われた「文久の修陵」でも、江戸幕府が岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵と修陵します。河内長野の方は古墳の形が前方後円墳でないということや、周壕がないなどの理由で否定されたそうです。。。

しかーし現在、岡ミサンザイ古墳は子供の応神天皇陵より新しい古墳と推定されています。これは明らかにおかしいではありませんか!すなわち岡ミサンザイ古墳は仲哀天皇陵とは限りません。というか違うでしょうが〜!

 

これは比定のやり直しが必要であろう。そう考えた私はさっそく、河内長野市上原地区発掘大調査団を結成すべく、考古学有志の友人に声をかけたのですが、「コロナが収まってきて、スーパーの仕事が忙しい」とか「最近体調がすぐれず、あいにくその日も腹痛になるであろうことが予想されるので」とか「お前の家の近所に天皇陵?わはは〜」など、それぞれの理由により、今回は大調査団の結成は見送られまして、団長=団員(私のこと)1名で上原地区のかつての比定地に調査に向かいました〓

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 ↑ 人家の横から、背後の大変狭い山道を登っていきます。黒・白の猫〓ににらまれました。神々の遣いかも知れません。。

土器や埴輪など遺物が露出していないか、注意して歩きますが、発見できたのは近年のものと思われる・・・ビール缶、ペットボトル等でした('ω')

多分、この上が赤峰市民スポーツ広場になっており、そのあたりから風に吹かれて飛んできたりするのかもしれません。。

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 ↑ 竹藪が繁っていて平地はあまりない。 古代の池と思われる池も発見!


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